• 俳キングしよう

    徘徊して俳諧する遊び

     

    とりあえずふらりと歩いて

    気になったことや

    面白いと思った情景を

    五・七・五にまとめる

     

    気ままに歩き

    感じたら撮る、面白そうなら撮る

     

    俳句をつくることなど意識せず

    思いつきを語りながら友と歩き、見つける

     

    思わぬ断片やスケッチを集めに

    さあ飛び出そう。

  • 俳キング 宣言

    「俳」とは「人」に「非」らず。

    自然の情景、そこにある物

    (生き物も人工物もすべて)や

    事件を切りとる。

     

    「俳」とは「人」に「非」らず。

    自分という人を離れて

    別の人あるいは

    動植物・対象物・風景に

    なりきる。

     

    「俳」とは「人」に「非」らず。

    自分がスゴい、自分が見つけた

    と誇るのではなく、

    見つけた相手・題材・対象・事件の

    面白さに没入している。

     

    「諧」とは「皆」に「言」う。

    みんなに「これって面白いだろう!」と

    思うことを切りとってわかちあう。

     

    「諧」とは「皆」が「言」う。

    みんなが「そんな見方があったか!」と

    思わず言ってしまうことを見つける。

     

    「諧」とは「皆」で「言」う。

    自分はきっかけ。

    みんなで「もしかしたらこうかも?」と

    つくりかえてゆく。

    ゆえに「俳諧」は明確な主語を持たないアート

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    対象によって、集まったみんなによって

    発見された面白さを愛でる。

    人知と自然の境目がない

    「発生的創造」の妙にひたる。

     

    「見つけた」というより「見つかった」。

    「つくった」というより「出来た」。

    野生の感性に導かれるままにうろつき

    野生の感受に従って一瞬を切り取り

    十七文字で表現する。

     

    それが

    「徘徊」して「俳諧」することである。

     

     

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    徘徊し俳諧する俳キングの会 主宰

    雅号・端求(たんきゅう)

    市 川  力

     探研移動小学校 ジェネレーター

    http://tqnology.strikingly.com/

    TQ Feel℃ Walk ランドウォーカー

    http://tqwalk.strikingly.com/

     

     

     

     

  • 俳キングの流儀

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    一瞬の情景を

    切りとる

    松尾芭蕉も、与謝蕪村も、正岡子規も、夏目漱石も、芥川龍之介も、寺田寅彦も、みんなカメラがない時代にカメラで切り取られたような一瞬を文字で表現する手法を遊んだ。

     

    「季語」が入ってないとダメとか小難しいハードルの前で立ちすくむことはない。五・七・五の十七文字で、見た情景が浮かぶように記す。それだけでいい。

     

    単なるインスタ映えではない、ちょっとひねった世界観を見せる。そのための

     

     写真+五・七・五

     

    それがインスタ俳句だ。

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    ひたすら十七字

    にまとめる

    文字数が十七字に限定されている表現だから、どんな言葉を選ぶかに頭をフル回転する。言葉を掘り起こして、入れかえて、差しかえる作業を素早く行い、表現し続ける。

     

    この作業は明らかに「創造性」と「表現力」を研ぎ澄ます最高のトレーニングになる。

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    対象になりきり

    私情を捨てて写生

    「写生」とは、風景・景色・出来事・状況をただ描写すること。自分の心情を説明しない。

     

    句にする対象に没入し、なりきることも「写生」するためのコツ。

     

    「私情」を捨てて対象になりきり、状況をただ言葉にするのが「写生」である。

     

    夏目漱石のような文士や寺田寅彦のような科学者の文章は美しく、明快なのは、写生的俳句を作ることで瞬間的観察力と端的な表現力が鍛えられたからであろう。

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    俳句は

    A × B のとりあわせ

    蕪村の「又平」の句が「月並」、つまり平凡ではなく、面白いのは、仁和寺御室という桜の名所の美しさをただ説明するのではなく、ほろ酔いのお調子男・又平と「とりあわせ」たからだ。

     

    両者のイメージが読み手の頭の中で融合され、「ピンクの桜が満開だ!」と説明することでは得られない花見の情緒が臨場感とともにほのかに生まれてくる。

     

    「発句(俳句)は物をとりあわすればできるものなり。それをよくとりあわするを上手といひ、悪しきを下手といふなり」

     

    この芭蕉の言葉がすべてである。

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    句会はせず

    家に帰って

    ひとりで句作

    ・帰り路に、あるいは家に帰ったら、
    「これはみんなに共有したい!」

    という写真を選ぶ(1枚〜3枚)。
     

    ・選んだ写真に#( ハッシュタグ )を2つか3つつけて表現するつもりで「十七字」にまとめる。そうすれば結果的に「俳句」になる。


    ・写真とできた俳句を主宰者宛にメッセンジャーで送る。


    ・主宰者が作成したメンバーのグループページに作者無記名で俳句がアップされる。

     

    ・俳句は、その日歩いたルートに沿って時系列で並べられる。すると、不思議な連想を催す「連句詩」が生まれる。

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    切れ字の代わりに

    # ハッシュタグ

    国語の授業で俳句には「切れ字」があるということだけ覚えさせられたが、はたらきについては教わらない。せいぜい、「切れ字をつけるとその語が強調される」ということぐらい。しかし、「切れ字」は俳句独特の世界を切り拓く、きわめて重要な働きをしているのである。

     

    A と B の2つの「とりあはせ」が、「切れ字」で分断される。読み手に放り投げられた唐突なぶつかりあいが「沈黙」を生み、「間」が生まれ、読み手の心の中にあるアナロジー感覚が動き出す。

     

    俳句は「切れ字」によって2つの「印象」を同時に交わらせることを可能にしたのである。

     

    「ぞ・かな・けり」のような「切れ字」と同等の働きをするのが「#(ハッシュタグ)」。なので、切れ字を用いず、2つの「#」で「印象」をぶつければ見事に俳句の「とりあはせ」が成立する。

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    必殺技 体言止め

    だらだらした表現を捨て去り、端的に引き締まった表現を目指すために、まず取り組むべきは「体言止め」で句を結ぶことだ。

     

    通常の文のように「〜である」とか動詞・形容詞を文末にせず

     

    例えば

     

    「店の前にかかるのれんが巻きついている」(二十字)

     

    ではなく

     

    「のれん巻きつく店の前」(十二文字)

     

    と「体言止め」でまとめて見る。前者は十七字を超えているので別の要素を付け加えることはできないが、後者は、ちゃんと五文字残っているので、

    「A:鼻水や」を「B:のれん巻きつく店の前」と取り合わせて、春一番の南風とともに花粉の季節がやってきたこと。寒い中鼻水をすすりながら、美味いものにありつこうとしている散歩者の様子が、風で巻きついてしまったのれんとつながる。

     

    そんな情景を表現できる。

  • 俳句は「白銀比」でできている

    詳しく知りたい方は、

    「俳諧お役立ちブログ」コーナーで紹介した

    サイエンスナビゲーター・桜井進さんの書いた

    「五・七・五の俳句に隠されていた『白銀比』」

    をお読みください。

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    2つの取り合わせについてのイメージを

    はっきりさせるために

    もう1つ要素を加えるやり方がある。

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    「柿を食べている」という状況と

    「法隆寺」という場の情景との間に

    「鐘がなる」というもう一つ別の要素を

    入れることによって

    よりイメージが広がり、奥行きが出る。

    まるで動画を見ているようで

    さらになんともしみじみとした

    風情がわいてくるから面白い。

  • 俳キング作品集

    これまで作った作品の紹介です

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    なんと絵葉書とともに俳句!

    写真で俳キングの祖は正岡子規

     

    正岡子規は、向島長命寺の桜餅屋の二階に下宿し、『七草集』という冊子をまとめた。短歌・俳句・漢詩・小説と様々なジャンルの文章が書かれたが、冊子の冒頭には、子規が散策したところの絵葉書が。後年「写実」を打ち出す素地が芽生えていたのである。

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    荷風先生と時空を超えて出会う

    カメラを持って歩き、俳句を作った永井荷風

     

    永井荷風はカメラで写真を撮る趣味があった。俳句集には自分の写真に俳句や短歌をつけたものを載せている。やはりインスタ俳諧人の先達である。

     

    たまたま深川芭蕉庵を訪れた時、芭蕉翁の坐像とともに隅田川にかかる清洲橋の遠景を切り取ってインスタ俳句を作った。

     

    桜も散ったばかりの春の夕暮れのたゆたい感じが、岸壁にひたひたと寄せる水音の気だるさとつながり、

     

    ひたひたと水音ばかり春の暮れ 端求

     

    という句を作った。

     

    家に帰って、パラパラと荷風俳句集をめくっていたらほぼ同じ場所からの荷風の写真と俳句があるではないか。

     

    たちまちに花火はやみて夜の雨 荷風

     

    隅田川の花火大会であろうから季節は夏。大きな音があっという間に消え去り、夜の雨の降るさーっという細かい音が聞こえてくるようだ。

     

    奇しくも「音」を主題として春と夏を対比する句ができた。

     

    当時は、芭蕉の坐像はないが、深川の芭蕉庵と知ってこの辺りを散歩したに違いない。同じ地面を歩いた先達と、見事に時空を超えて、出会い、対話する心地。

     

    これもまたインスタ俳句の醍醐味。

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    まんまるに猫眠らせる冬陽かな 端求

     

    待ち合わせの30分前に目的地に着いた。Cafe マメヒコで一杯と思ったら開店は正午からだった。付近に喫茶店はない。さりとて30分ただ待つのもなあ……と思って、ローソンでカフェラテを買って、春の小川を暗渠にした遊歩道にあるベンチに向かう。

     

    どうせ座るなら、日陰より日向がいい初冬の朝。いいところが見つかったなと思い、腰かけ、やはりたっぷりの陽だまりになっている隣のベンチの下をふと見ると、まあ気持ちよさそうに猫が眠っているではないか。

     

    近隣のオフィスに向かう通勤の人たちが足早に通り過ぎる傍で、私とあいつだけが取り残されている。たまに猫がいることに気づき、ちょっと立ち止まったり、スマホで写真におさめたりする人がいる。しかし、多くの人はただ通過するだけ。スマホに夢中の人もいる。

     

    突然、猫が立ち上がった。するとそこにコートを来たサラリーマンがやってきた。猫が彼の足元にまとわりつくと、ポケットからさっとキャットフードを出して、パッとまく。そしてすぐに立ち去る。野良猫にエサやりをするのに目くじらを立てる人も多いので、サラリーマンの素早い動作はさすが。

    そこへカラスがやってきて、近くの木の枝に身を隠す。そしてひと鳴き。エサがあるぞと仲間に知らせているのだろうか。

     

    おい、猫、上に狙っているやつがいるぞ。しかし、猫はそんなことを気にせず、のんびりとブレックファースト。

     

    この構図が面白いので、写真を撮ろうとレンズを向ける。すると、さすがカラス。光るものを察したのか、すぐに飛び立つ。期せずして猫をアシストすることになった。

     

    猫は、ゆるりと食べ終わり、また眠った。

     

    朝から、猫ととともに、猫のように過ごした30分。時間を埋めるんではなくて、ぽっかり空いた時間をただ過ごすこと。

     

    これもまた Feel℃ が高まる大事な時間。

     

     

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    朽ちた葉の薫る日暮れや焼き魚 端求

     

    八王子長沼の浅川のほとり。悪ガキ時代に野で遊びほうけた場所を歩く。

     

    たくさんの落ち葉が積み重なった野道を歩いていると、豊かな土と次の命を支える腐葉へと変わろうとしている朽ちた葉の芳醇な香りに包まれる。そこに夕餉どきの焼き魚の香りが漂う。

     

    「この匂いだ!」

     

    プルーストのマドレーヌのような幼き日の五感記憶が見事に蘇る。全く同じ時刻、同じ感覚が四十年の月日を超えて。

    橋の上からかつてのわが家の方を眺める。すると、なんという美しい光景。

     

     

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    枯れたとて吹き上がり舞う

    命かな 端求

     

    風の強い一日。森の中にはフォースが充ち溢れる。

    これはレンズ・写真の傷ではない。

    麓から吹いてきた風に無数の落ち葉が舞い上がる。その饗宴のただ中に放り込まれた。

     

     

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    石段に落ちる木の実や冬鴉 

    端求

     

     

     

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    隅々に低き冬陽のさしこめり 

    端求

     

    コーヒーが切れた。

     

    外に出るととてつもない快晴。風の冷たさよりも晴れやかさに心踊る。逗子から北鎌倉まで歩くことにする。

     

    逗子小坪から光明寺坂を越え、寺の裏手に来ると、台風で壊れた部分の補修のためか、年末への準備のためか本堂は修築中である。その向こうに富士がくっきりと見える。

     

    引き潮の由比ヶ浜を歩き、喧騒の鎌倉市街をそそくさと通り抜け、亀ヶ谷坂を越えれば、北鎌倉。ずっと飲み続けている北鎌倉・ベルタイムのコーヒー。ドアを開けると、店主のオヤジさんがストレッチしていた。

     

    「いらっしゃい。今日はいい日だねえ」

     

    判で押したようにとはまさにこのことで、いつもの「鎌倉豆次郎」を買う。オヤジさんにペーパードリップ用に挽いてもらう。

     

    「店先にいい感じに陽が入りますねえ」

    「そうなんだよ。日向ぼっこするのにちょうどよくってね。最近、腰だの、膝だの痛くて、ストレッチするといいっていうからさ。ちょっとやってたんだけど」

     

    グラインダーの音とともにコーヒー豆の香りが低い冬日のたっぷり差しこむ店内に広がる。挽き終えた豆を袋につめなおしながらオヤジさんが

     

    「それにしても年をとるのはあっという間だね」

     

    と言う。それは自分に対してもあり、もちろん私に対してもあるだろう。思えば、この店のコーヒーを飲み始めたのはアメリカから戻ってきた時以来。「あっと言う間の」十数年だ。

     

    「あっと言う間」

     

    のアクセントは、「あっ」が高くて「と」で下がる言い方でないと気持ちが伝わらない(「あっ」が低くて「と」で上がるではダメ)。こんなことを思うのも、荷風の濹東綺譚の影響だ。

     

    こういう何気ない会話。いつも親密なわけではないのだが、なんとなくお互い気になる、不即不離な距離感の関係でのやりとり。チェーン店のカフェで

     

    「ごゆっくりどうぞ」

     

    と言われても、あまりに機械的で、決まりきっていて、むしろ表現と裏腹の冷たさを感じてしまうのとは対照的。

     

    「あのさあ、ちょっと変なこと始めたんだよね」

     

    一杯だけ手軽に飲めるように、コーヒー豆を詰めたティーバッグが真空パックされた新製品をおまけにくれた。

     

    あっという間に年末、あっという間に人生は去っていく。止められぬ時の流れに流されながら、誰かのために、何かのために、誠実に、コツコツと、自分の道を進むしかない。誰かと比べるのでも、誰かに勝とうとするのでもない。ただ自分の追い求めたいものを探り続ける。それがオヤジさんのコーヒー一筋の「あっという間」だったのだろう。

     

    帰りは電車で逗子まで戻り、家までの帰り道の途中にある行きつけのパン屋で、あんぱんとくるみパンを買う。

     

    「今日は風が冷たいですね」

     

    おかみさんが言う。

     

    「富士山も見えたみたいで。雪景色かしら」

    「いやあ、まだ、ほんの少しですね」

    「そうですか。海の方まで行く暇ないからねえ」

     

    最初は小さなパン屋さんだったが、今では白い洋館のおしゃれなベーカリーになった。しかし、妙に小洒落たパンではなく、普通の食パンやあんぱんを地道に作ってくれているから、私はここに通う。

     

    「これ、おまけしますね」

     

    食パンをもらった。こうすればフードロスは出ないし、人と人の心も温かくつながるではないか。

     

    海のそばに住みながら、海を見ることなく、ひたすらパン作り探究一筋。こちらも「あっという間」だったに違いない。

    自分が引き受けたことに応答しながら、何かをつくり続け、未来に委ねる。時と戯れ、マインドワンダリングなひとときを前向きに過ごすことに共感できる人とのコレスポンデンス。

     

    一点の曇りのない冬の青空にふさわしい、なんてことはないのだけれど、とても豊かな昼下りだった。

     

     

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    急坂と名のる坂あり腹ごなし 

    端求

     

    京浜東北線が架線断線で大変なことになっていることなどつゆ知らず、その直前に関内駅に着き、伊勢佐木町で文明開化そのままの牛鍋をゆるりと食した後、野毛山を目指す途中に、

     

    急坂

     

    という名の坂に出会った。確かに急だった。

     

     

     

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    シベリアに迎えられるや冬散歩 端求

     

    野毛山公園を散策し、掃部山公園を巡って、伊勢山皇大神宮と成田山をお参りした後、桜木町に向かおうとすると、店の看板よりも何よりも

     

    シベリア

     

    の文字が。

     

    おお、今日も出会えた「懐かしのシベリア」。田端の、そして麻布十番の名店をしのぐか。

     

    なんとここのシベリアは、カステラより羊羹の方が厚い。親父さんいわく、

     

    「シベリアの地で羊羮がカステラのオーバーを来て心温まっている」


    とのこと。カステラづくりに水羊羹づくり。どちらも冷まさないといけないので、毎日、午前1時半に起きて6時間ほどかけて作るという。すべてに上品。さっぱりした甘み。う〜ん、どこのシベリアもそれぞれ個性があって、どれもうまい。

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    逆らいて登る童や 雲の峰 

    端求

     

     

     

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    蚊に刺され暁斎の鯉見つめたり

    端求

     

      

  • 俳諧お役立ちブログ

    俳句を磨くのに役立つ知識・本・ひらめきを自由に綴ります

    子規の写生俳句の原点は「散歩」にあり You Tube で、「正岡子規」の映像はないか探したところ、随分昔に放送された、NHKの「その時歴史が動いた」で子規を取り上げた回が見られた。それを見ていたら、こんなシーンに出くわした。 「子規は東京郊外を散策し、写生による俳句を作ろうとする」 これを見て、今、子規先生がいたら、きっとFeel℃ Walkしながらスマホで写真を撮影しつつインスタ俳句をしたに違いないと確信した。 「市川くん、ぜひやってみてくれたまえ」 と言う子規先生の声が聞こえてきた。 「一冊の手帳と、一本の鉛筆とを写生の道具にして、吾は写生的俳句をものにしよ...
    田端文士村に飾られていた堀辰雄の色紙。駒場の日本近代文学館で1850円で売っていた。一般的に考えれば、えっ?だから何?というような文句を、なぜわざわざ堀辰雄は好んで書いたのか。 調べてみると、実は、この文句、堀辰雄の詩の一節に出てくる。 「天使たちが」(1927年 昭和2年作)  天使たちが 僕の朝飯のために 自転車で運んでくる パンとスウプと 花を すると僕は その花を毮(むし)って スウプにふりかけ パンにつけ さうしてささやかな食事をする この村はどこへ行っても いい匂いがする 僕の胸に 新鮮な薔薇が押してあるやうに そのせゐか この村には どこへ行っても犬が居る 西洋...
    【問】友達が送ってくれたこの写真に 幸福が吸い込まれるや青い空 という句をつけて見ました。「切れ字」を使ってみたかったので、はじめ「は」にしたのを「や」に変えました。果たして「や」の使い方これで良いのでしょうか?? 【答】「や」は「切ります」という合図として使います。したがってこの句は、 「幸福が吸い込まれます」 で切れて、 「青い空です」 と「とりあはせ」ることになります。つまり、「や」を入れるということは「幸福が吸い込まれます」「青い空です」という取り合わせが面白い!と言いたいというサインになります。 【問】この写真を見たとき「黄色」と「青」のコントラ...
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